滅亡は嘘!?政権から降ろされた氏族はどうなった?天皇による国家運営のカラクリとは?

滅亡は嘘!?政権から降ろされた氏族はどうなった?天皇による国家運営のカラクリとは?

日本を知るには「天皇」という名のビジネスモデルを理解しなければなりません。

今回は国家運営というビジネスの中で、政権トップからいなくなった人材のその後の活用について調査してみました。

大化の改新(645)後の蘇我氏はどうなった?

大化の改新(645)後の蘇我氏はどうなった?

蘇我氏は、新羅からの渡来人だったと言われています。

飛鳥宮がササン朝ペルシア帝国の宮殿の配置や水溝技術が似ていることから、蘇我氏のルーツをペルシア人、古代ユダヤ人だという人もいるそうです。

日本書記の前にも、蘇我氏が編纂した歴史書もあったそうですがクーデターで燃やされたそうで、古代歴史マニアとしては残念なところです。

それにしても、蘇我入鹿と蘇我馬子。あわせて「馬鹿」ですよね。彼らが「馬鹿」の由来なのか、後世の誰かが「バカ」に因んで、いたずらに捏造した名前なのか、気になるところです。蘇我蝦夷もなぜまだ未開拓の「エゾ」を指す名前をつけたのかますますミステリーは深まるばかりです。

さて、大化の改新後は、百済系の中臣氏が政権を席巻し、彼らは藤原氏を名乗っていくわけですが、蘇我氏はどうなったんでしょうか?

結論からいえば、蝦夷の弟の蘇我倉麻呂の子孫たちがしっかりと政権の近くにおさまっています。例えば、蘇我倉山田石川麻呂、蘇我赤兄、蘇我連子は天智天皇の右大臣、蘇我安麻呂は天武天皇の信任があつく、石川姓を賜っています。

また、天智天皇に嫁いだ蘇我氏の血が元明天皇に受け継がれています。

百済(-660)滅亡後、王一族が日本に亡命

百済(-660)滅亡後、王一族が日本に亡命

百済最後の王である義慈王の子である善光は持統朝に百済王の氏姓を賜与され、一族は難波(百済郡)に住み着きました。そのあと、陸奥国で金を発見して異例の大出世をした百済王敬福が、河内守を命じられ、河内に拠点をうつしました。

奈良時代末期には俊哲が陸奥守・鎮守将軍・征夷副使などに任じられ、武鏡は出羽守となるなど、中流貴族として存続しました。

桓武天皇の実母(高野新笠)は百済王の子孫だそうです。

ちなみに935年に滅亡した新羅についてですが、王族の亡命はないようです。ただ埼玉県の新座市に新羅の亡命者が住めるように朝廷が手配したようです。

このような渡来人の集落の形成は、飛鳥時代の前にも当たり前のように行われていたのでしょうね。なにせ大陸では王朝の入れ替わりが激しかったですから。

このあたりの古代日本国家形成についてはいつか記事にしたいと思います。

高句麗(-668)滅亡後、王族が亡命

高句麗(-668)滅亡後、王族が亡命

つい最近、天皇陛下ご夫妻が埼玉県日高市の高麗神社を訪れましたが、現宮司は60代目で、703年の高麗若光まで遡ります。彼らは亡命の際にこの地を与えられ、自治が許されたといいます。また、750年には高句麗第19代広開土王の子孫の福信一族が朝臣のカバネを与えらました。

また、高句麗第22代安臧王の子孫に狛氏がいます。

藤原道長(-1028)の後はどうなった?

藤原道長(-1028)の後はどうなった?

中臣鎌足からはじまった藤原氏ですが、唐人ではないのかという噂もあるようです。平城京は長安を模倣してつくられたことや、藤と唐が同じ音読みになるというところが論拠のようです。ちなみに、源氏はゲンで「元」(モンゴル人)、平氏は「ペイ」でペルシア人、橘氏は「キツ」で契丹人という説もあるようです。

人類の想像力って、私たちの想像をはるかに凌駕していますね。

さて、藤原不比等が政権の中枢に入りますが、彼は子孫を東西南北の4家にわけて、その中から摂政と関白を選ぶようにしました。まるで徳川御三家の将軍選びの仕組みみたいですね。

摂関家は藤原氏と決まっているので、道長と頼通で終わったわけではなく、地味ながら、それでいて、しっかりと粘り強く天皇家に仕えたのでした。

なんと、藤原北家以外で関白となったのは豊臣秀次ただ一人(秀吉は藤原秀吉として任官)であり、五摂家以外からの摂政は例がないのです。

こんな風にして藤原北家だけ天皇家の周辺に1200年もい続けるようになりました。

鎌倉時代に入ると、藤原北家は近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家の五摂家に分立。

近衛家は、戦国時代だと細川忠興、戦後だと、近衛文麿や細川護煕は有名ですね。

なので、「日本はずっと藤原氏の手中にある」という陰謀論者には、たまらないコンテンツの宝庫が藤原氏だったのです。

そもそも武家の台頭という理由で教科書から消えてしまっただけで、別に政権を追い出されたわけではない藤原氏ですが、このあたりの目立たない処世術は我々も見習うべきところだと思います。

そもそも道長もそんなにチョづいてないただのオサーンだったかもしれません。なにせ、エロ本を書いている女流作家(紫式部)のパトロンですからね。天皇家を題材にした腐女子本をよく書けたもんです。コミケに足繁く通うおっさんみたいな感じじゃないでしょうか。

壇ノ浦(1185)で滅亡した平氏はどうなった?

壇ノ浦(1185)で滅亡した平氏はどうなった?

平清盛と深いつながりのある厳島神社はゾロアスター教との共通点から、平氏はペルシャ人だったのではないかという説があるようです。

平氏には桓武天皇から出た桓武平氏、仁明天皇から出た仁明平氏、文徳天皇から出た文徳平氏、光孝天皇から出た光孝平氏の四流があります。

後世に残ったもののほとんどは葛原親王の流れの桓武平氏です。

多くの平氏は地方の郡司に送り込まれており、そこから200年たった時代に平清盛がでてきてますから、平氏は清盛の一門だけと考えるのは早計です。

例えば、鎌倉幕府を支えた北条氏も平家ですし、三浦氏・土肥氏・秩父氏・千葉氏なども平家です。

また公家平氏の高棟王流である時忠は壇ノ浦の戦いの後、能登に流され没落しましたが、時忠の弟親宗の子孫(唐橋家)や叔父信範の子孫(西洞院家・安居院家・烏丸家)は鎌倉時代以降も公家として続きました。

また、清盛を生み出した伊勢平氏の維衡の子孫には他に室町時代に有力な幕臣となる伊勢氏がいて、第13代将軍足利義輝の時代の政所執事・伊勢貞孝は幕政を独り占めにしました。貞孝の死後、伊勢氏は力を失いつつも江戸時代には旗本として続きました。また伊勢氏の傍流出身といわれる伊勢盛時は一代で伊豆・相模を平定し、戦国大名・後北条氏(小田原北条氏)の祖となったりしました。

なお、本来の「平家」である高棟王流は明治維新まで存続しました。ですので、壇ノ浦の戦い以後も「平家」は存続していたとも言えるでしょう。

つまり壇ノ浦の戦いは、平家のほんの一派の没落にすぎないということです。

鎌倉3代将軍源実朝(-1219)の後はどうなった?

鎌倉3代将軍源実朝(-1219)の後はどうなった?

源実朝が暗殺されてから、将軍家としての源氏は途絶えました。

では鎌倉将軍は3代で途絶えたかというと実は9代まで続いています。

なんと、4代将軍(藤原頼経)と5代将軍(藤原頼嗣)は九条藤原家です。

その後は、親王、つまり天皇家が将軍になっているわけですね。

なお、執権の北条氏は平氏です。鎌倉幕府を倒した新田義貞、室町幕府をつくった足利尊氏は、源頼朝とおなじく、源義家の子孫ですから、源氏もまたきちんと国政の中枢に居続けることになります。

室町15代将軍足利義昭(-1573)の後はどうなった?

室町15代将軍足利義昭(-1573)の後はどうなった?

実は江戸時代になっても、足利氏はそれなりに活躍しているようです。

足利尊氏の三男足利基氏を祖とする家柄である鎌倉公方は、後に本拠地を鎌倉から古河の地に移したので、古河公方家となります。

古河公方は、小田原北条氏と激しい覇権争いを繰り広げましたが、やがて徳川幕府により、事実上足利宗家的な扱いを受け、10万石の国主大名格として遇されました。

また、足利一門は、高家職に就くことのできる旗本(高家旗本)に登用されたりして、その中に忠臣蔵に出てくる吉良氏がいます。吉良氏も足利家だったんですねえ。

あと、足利尊氏は一時期、九州まで敗走してたりします。そして、陰謀論マニアが大好きなあの毛利家も手助けをしています。毛利家といえば南朝の末裔をかくまっていたそうです。こんな感じですから、中国、九州にも足利の血縁がいるに違いありません。

徳川15代慶喜(-1868)の後は貴族院議長がぞくぞくと

徳川15代慶喜(-1868)の後は貴族院議長がぞくぞくと

明治維新では幕府のみならず大名の利権がどんどん明治政府に置き換わっていったわけですが、当然華族としてそれなりのバーター条件を手に入れているわけです。

その一つが貴族院議員というやつですね。総理大臣のほとんどは貴族院から排出(輩出)されています。というか、衆議院議員で首相となったのは原敬が初めてで、大日本帝国憲法下の33人の首相の中で衆議院議員は、濱口雄幸、犬養毅の3人だけです。

そして、明治維新で負けたはずの徳川家もしっかりと利権を手に入れています。なにせ徳川家は明治維新の影の功労者ですからね。

ざっとこんな感じです。

16代徳川家達:静岡藩知事(1869-1871)、第4代-8代貴族院議長(1903-1931)
水戸13代圀順:第12代貴族院議長(1944-1946)
17代徳川家正:第12代貴族院議長(1946-1947)

ちなみに、家達は島津家に近い近衛家と婚姻関係、家正は島津藩主の娘と婚姻関係を結んでいます。明治以降になっても公武合体、昭和になったら幕末の敵国との合体ですか。戦国の世でもないのに政略結婚ベースな人生ってのも元将軍家は大変ですね。

ちなみに現在の徳川宗家、18代徳川恒孝は靖国神社の宮司になっており、すったもんだがあって間も無く退陣するようです。靖国神社は官軍の戦没者慰霊なのに、世の中不思議なものがあるようです。なかなか我々には理解できない人類の叡智なのでしょう。

天皇裕仁(-1945)のあとはどうなった?

天皇裕仁(-1945)のあとはどうなった?

大東亜戦争が終わるまで国家の元首だったので、この項目をあげないわけにはいきません。でも、みなさんの知るところですので、筆者はひとまず筆をおきます。

GHQが天皇家を廃絶しなかった理由に、天皇家は古代ユダヤ人だからという説もありますが、ここまでの考察を見てもわかるように、「人材を根絶やしにしない」という日本国家運営の歴史をマッカーサー元帥が理解したのではないでしょうか?

もしくは、元帥がなんらかのディベートを受けていたとなると、人間の俗っぽさが増してシナリオ的にはいいですね。

大陸に位置する国ですと、負けた民族はおっぱらえばいいですが(というか勝手に逃げますが)、日本は島国なので、ある氏族をまるごと海外におっぱらうことはできません。そもそも、私たち世界各地の負けて逃げてきた渡来人の集まりなわけです。

誰か偉い人が敗走すればそれをかくまう人もいます。そうすれば内乱がおこります。敵を根絶やしにすることなんかできません。国家運営において人民資源というビジネスアセッド(資産)をつまらぬ内乱で無くしてしまうよりも、負けた政敵にも名誉と富を保証した方がうまくビジネスアセッドをうまく引き継げるということは、江戸の無血開城でも説明がつきます。

そして、その時代の実力者にあわせて、あえて傀儡となる天皇家の身軽さも素晴らしい。会社経営でいうところの名誉顧問職を転々としているわけです。

その事業のコアが、サイキック能力なのか、ブランドなのか、名義貸しなのか、賄賂なのか、よくわかりませんが、いろいろな為政者が天皇家に翻弄されているという側面もとってもチャーミングなわけです。

というわけで、次は天皇家という名のビジネスモデルについて、深く考察してみたいと思います。

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